【第二部】軍歌 特集【昭和、終戦まで】
軍歌特集の第一部では、日本軍歌の起こりとなる明治元年から日露戦争後の一時の平和な大正時代にかけての軍歌のリンクを張ってきました。
この第二部では、いよいよ日本国と日本国民全てを巻き込む戦争の時代に生まれた軍歌のリンクを張っていきます。
Ⅲ.昭和、日中戦争
満州事変の前年となる1930年には、後に五・一五事件に関わる三上卓により、この歌が発表されました。
青年日本の歌(1930年、昭和5年)
世界恐慌等による経済の悪化と国際社会の不安定化、さらには政争を続ける政治への不満の高まりがこの歌に綴られ、この憤りはやがて海軍による五・一五事件と陸軍による二・二六事件に繋がっていきます。
露営の歌(1937年、昭和12年)
勃発した日中戦争での国民の戦意高揚を目的として、歌詞は毎日新聞にて公募、作曲は、後に「長崎の鐘」「オリンピック・マーチ」「栄冠は君に輝く」や「六甲おろし」を作曲する古関裕而が担当しています。
海ゆかば(1937年、昭和12年)
万葉集は大伴家持の長唄を詩とした曲。主君のためになら海でも山でも死のうとの大意を持ち、大本営発表では、玉砕を伝える際に流した曲とのことで、鎮魂歌としての軍歌の役割を担ったようです。
暁に祈る(1940年、昭和15年)
こちらも古関裕而作曲です。同名の映画の主題歌であり、戦時歌謡です。
軍馬PRの映画と歌だったものの、内容的には反戦の意に近いものとなっています。
出征兵士を送る歌(1939年、昭和14年)
現在の講談社の前身となる「大日本雄辯會講談社」が陸軍省と提携して歌と曲を公募して選ばれた軍歌。抜群の戦意高揚力を持つ楽曲だと思います。
燃ゆる大空(1940年、昭和15年)
作曲は、「赤とんぼ」「この道」「待ちぼうけ」の山田耕筰。日中戦争での航空部隊の活躍を勇ましく描いた歌です。
なんだ空襲(1941年、昭和16年)
こちらも山田耕筰作曲。意外にも、1944年末から始まる日本本土空襲よりも数年前に作られた作品です。
Ⅳ.昭和、大東亜戦争
進め一億火の玉だ(1942年、昭和17年)
真珠湾攻撃に端を発する大東亜戦争開戦の翌年に発表された曲……ですが、この時点でもう国民全体を戦争に巻き込んでる感がヤバいです。国家総動員法をバックに、軍部の本心を剥き出しにしてしまっています。
主力空母4隻とその搭載機約290機の全てを一挙に喪失し、戦局の転換期となったミッドウェー海戦後という痛恨の事実をして、すでに日本の敗戦が濃厚であることを悟っているかのような玉砕的破滅的スローガンの軍歌です。
月月火水木金金(1940年、昭和15年)
こちらはドリフターズ歌唱版
えぇ……、と白目にならずにはいられないブラック題名一等賞の軍歌。なんだか九連宝塔みたいでもあります(イミフ
空の神兵(1942年、昭和17年)
無数の降下中の落下傘部隊の白い落下傘を白薔薇にたとえた曲。晴れ晴れした大空と、空いっぱいの落下傘の壮観さがよく表現されています。
欲しがりません勝つまでは(1942年、昭和17年頃)
子供も戦争に全面協力します!、という窮乏の一途を辿る戦時下の国政にぴったりとはまったスローガンと、その後につくられたのがこの歌です。子供の溌剌とした決意が微笑ましくも物悲しいです。
若鷲の歌(1943年、昭和18年)
戦意高揚映画の主題歌。避けられない戦いに真正面から挑む気概が短調のこの曲に表現されています。
同期の桜(1945年、昭和20年)
歌詞には「靖国神社にて会おう」の意の歌詞が入っていますが、これは西洋で言うところの「ヴァルハラで会おう」ですね。
桜の「散る」は言うまでもなく、言うまでもなく。航空隊の同期の仲間についての歌ということもあり、特攻隊員にて流行った歌とのことです。
そして、1945年、昭和20年8月15日、正午にラジオにて終戦放送が昭和天皇の肉声により発せられ(玉音)、終戦となりました。
終戦放送(玉音放送)
戦後、1954年に自衛隊が発足し、日本は防衛を主とした軍隊を保持し、現在に至っています。
なお、軍歌……というわけではないでしょうが、自衛隊歌は存在します。どちらも良い曲です。
この国は
古関裕而作曲。
海をゆく
古関裕而作曲。
と、いう感じで有名どころの曲の軍歌のリンクを張ってみました。
死に近い場所に赴いて戦うという、非常に決意と勇気がいることにたいしての戦意高揚のため、明るく元気の出る歌が多い反面、戦友や親しい人の死を悼む歌、あるいは厭戦歌、反戦歌もさりげなくあったりして、思想的に雁字搦めだったはずの戦時中でも目いっぱいの詩歌や楽曲の表現があったことを今回改めて知ることとなりました。
軍歌、特に戦時歌謡は、国家のプロパガンダとして戦争への参加と協力を煽りまくった歴史があるので、今でもともすれば忌避される楽曲のジャンルではあります。
しかし、忌避すべきことがらでも、忘れてしまってはせっかくの日本の痛恨の歴史の意味がなくなってしまいます。この永遠の爪痕ともいえる戦争の記憶はいつまでも覚えておかないといけないと思います。そうでなければ、きっとまた同じことを繰り返すだろうからです。
昨今、ブラック企業のことが取り沙汰されていますが、このブラック気質は、日本人の「従順で」「勤勉で」という性質を悪用したものです。戦時中もまたその性質がとことん悪用され、それが数百万人もの尊い犠牲につながりました。
日本人的気質をよりしっかりと自覚して、よりよく生きるためにも、あえて過去を振り返り、歴史を辿ることはとても大切なことと思います。その歴史の一端に軍歌もあると思うので、これを機に、今後も軍歌をいろいろな折で聴いていきます。
では、軍歌の最後はこの曲で締めくくりましょう。この曲は7番の歌詞に、国防思想が出てきたりしますが、自衛の精神は大事なので、問題なしんこなしなしです!
われは海の子(1910年、明治43年)
この第二部では、いよいよ日本国と日本国民全てを巻き込む戦争の時代に生まれた軍歌のリンクを張っていきます。
Ⅲ.昭和、日中戦争
満州事変の前年となる1930年には、後に五・一五事件に関わる三上卓により、この歌が発表されました。
青年日本の歌(1930年、昭和5年)
世界恐慌等による経済の悪化と国際社会の不安定化、さらには政争を続ける政治への不満の高まりがこの歌に綴られ、この憤りはやがて海軍による五・一五事件と陸軍による二・二六事件に繋がっていきます。
露営の歌(1937年、昭和12年)
勃発した日中戦争での国民の戦意高揚を目的として、歌詞は毎日新聞にて公募、作曲は、後に「長崎の鐘」「オリンピック・マーチ」「栄冠は君に輝く」や「六甲おろし」を作曲する古関裕而が担当しています。
海ゆかば(1937年、昭和12年)
万葉集は大伴家持の長唄を詩とした曲。主君のためになら海でも山でも死のうとの大意を持ち、大本営発表では、玉砕を伝える際に流した曲とのことで、鎮魂歌としての軍歌の役割を担ったようです。
暁に祈る(1940年、昭和15年)
こちらも古関裕而作曲です。同名の映画の主題歌であり、戦時歌謡です。
軍馬PRの映画と歌だったものの、内容的には反戦の意に近いものとなっています。
出征兵士を送る歌(1939年、昭和14年)
現在の講談社の前身となる「大日本雄辯會講談社」が陸軍省と提携して歌と曲を公募して選ばれた軍歌。抜群の戦意高揚力を持つ楽曲だと思います。
燃ゆる大空(1940年、昭和15年)
作曲は、「赤とんぼ」「この道」「待ちぼうけ」の山田耕筰。日中戦争での航空部隊の活躍を勇ましく描いた歌です。
なんだ空襲(1941年、昭和16年)
こちらも山田耕筰作曲。意外にも、1944年末から始まる日本本土空襲よりも数年前に作られた作品です。
Ⅳ.昭和、大東亜戦争
進め一億火の玉だ(1942年、昭和17年)
真珠湾攻撃に端を発する大東亜戦争開戦の翌年に発表された曲……ですが、この時点でもう国民全体を戦争に巻き込んでる感がヤバいです。国家総動員法をバックに、軍部の本心を剥き出しにしてしまっています。
主力空母4隻とその搭載機約290機の全てを一挙に喪失し、戦局の転換期となったミッドウェー海戦後という痛恨の事実をして、すでに日本の敗戦が濃厚であることを悟っているかのような玉砕的破滅的スローガンの軍歌です。
月月火水木金金(1940年、昭和15年)
こちらはドリフターズ歌唱版
えぇ……、と白目にならずにはいられないブラック題名一等賞の軍歌。なんだか九連宝塔みたいでもあります(イミフ
空の神兵(1942年、昭和17年)
無数の降下中の落下傘部隊の白い落下傘を白薔薇にたとえた曲。晴れ晴れした大空と、空いっぱいの落下傘の壮観さがよく表現されています。
欲しがりません勝つまでは(1942年、昭和17年頃)
子供も戦争に全面協力します!、という窮乏の一途を辿る戦時下の国政にぴったりとはまったスローガンと、その後につくられたのがこの歌です。子供の溌剌とした決意が微笑ましくも物悲しいです。
若鷲の歌(1943年、昭和18年)
戦意高揚映画の主題歌。避けられない戦いに真正面から挑む気概が短調のこの曲に表現されています。
同期の桜(1945年、昭和20年)
歌詞には「靖国神社にて会おう」の意の歌詞が入っていますが、これは西洋で言うところの「ヴァルハラで会おう」ですね。
桜の「散る」は言うまでもなく、言うまでもなく。航空隊の同期の仲間についての歌ということもあり、特攻隊員にて流行った歌とのことです。
そして、1945年、昭和20年8月15日、正午にラジオにて終戦放送が昭和天皇の肉声により発せられ(玉音)、終戦となりました。
終戦放送(玉音放送)
戦後、1954年に自衛隊が発足し、日本は防衛を主とした軍隊を保持し、現在に至っています。
なお、軍歌……というわけではないでしょうが、自衛隊歌は存在します。どちらも良い曲です。
この国は
古関裕而作曲。
海をゆく
古関裕而作曲。
と、いう感じで有名どころの曲の軍歌のリンクを張ってみました。
死に近い場所に赴いて戦うという、非常に決意と勇気がいることにたいしての戦意高揚のため、明るく元気の出る歌が多い反面、戦友や親しい人の死を悼む歌、あるいは厭戦歌、反戦歌もさりげなくあったりして、思想的に雁字搦めだったはずの戦時中でも目いっぱいの詩歌や楽曲の表現があったことを今回改めて知ることとなりました。
軍歌、特に戦時歌謡は、国家のプロパガンダとして戦争への参加と協力を煽りまくった歴史があるので、今でもともすれば忌避される楽曲のジャンルではあります。
しかし、忌避すべきことがらでも、忘れてしまってはせっかくの日本の痛恨の歴史の意味がなくなってしまいます。この永遠の爪痕ともいえる戦争の記憶はいつまでも覚えておかないといけないと思います。そうでなければ、きっとまた同じことを繰り返すだろうからです。
昨今、ブラック企業のことが取り沙汰されていますが、このブラック気質は、日本人の「従順で」「勤勉で」という性質を悪用したものです。戦時中もまたその性質がとことん悪用され、それが数百万人もの尊い犠牲につながりました。
日本人的気質をよりしっかりと自覚して、よりよく生きるためにも、あえて過去を振り返り、歴史を辿ることはとても大切なことと思います。その歴史の一端に軍歌もあると思うので、これを機に、今後も軍歌をいろいろな折で聴いていきます。
では、軍歌の最後はこの曲で締めくくりましょう。この曲は7番の歌詞に、国防思想が出てきたりしますが、自衛の精神は大事なので、問題なしんこなしなしです!
われは海の子(1910年、明治43年)
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